備前平野に春を呼ぶと言われる西大寺の会陽(はだか祭り)は、2月(如月)の第3土曜日に開催されます。
この日は、西大寺観音院に9千人ともいわれるはだかの男たちが集まり、宝木争奪が繰り広げられます。
西大寺会陽の歴史
この項 ウィキペディアより(一部転載者加筆)
旧暦1月(現在の2月)に行われる新年の祈祷である「修正会」は、東大寺良弁僧正の高弟・実忠が創始したものであり、西大寺には開山の安隆が伝え、毎年旧正月元日から14日間行われていました。
西大寺の修二会(会陽)が現在のように裸にまわしをしめた男衆が宝木(しんぎ)を奪い合う形になったのは、1510年(永正7年)、僧侶の忠阿が修正会の結願の日に守護札を所望し殺到する参詣者の頭上に投与し、参詣者が身体の自由を守るために裸になって守護札を奪い合ったことに始まるとされています。
現在、日本三大奇祭の一つに数えられる会陽(裸祭り)は、毎年2月の第3土曜日に開催されます。
神事は3週間前からはじまり、宝木の材料を削る刃物の研ぎに始まり、当日裸の群れに投げ込まれる宝木の材料を如法寺無量寿院(岡山市東区広谷)に受け取りに行く「宝木取り」、その翌日の「宝木削り」、そして14日前からの修二会の祈祷が行われ、宝木に香が焚き込まれます。
会陽当日の夜になるとまわし姿の裸の男衆が「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに集まり、牛玉所大権現(ごおうしょだいごんげん)の裸の守護神を参詣したあと、本堂西の四本柱をくぐり、本堂に向かいます。
そして、14日間の修二会の祈祷が結願した深夜に、本堂のご福窓から裸の男衆の頭上に香を焚きしめられた2本1対の宝木がそれぞれ牛玉紙に包んで投下されます。
この宝木争奪戦を制して2本いずれかの宝木あるいは両方の宝木を手にし、仁王門の外に出た者がその年の福男になります。(現在は観音院境内の外での宝木争奪は禁止されており、仁王門外到達の時点で確定します)。
宝木の取得者は主催者である岡山商工会議所西大寺支所内に特設された仮置場へ宝木を持ち込んで申告、鑑定を受けその宝木が正当なものであれば福男として認められ、その後宝木をその年の祝い主へ持ち込んで祝福を受け表彰状を授与されます。
持ち込まれた宝木はそれから約1年、祝い主にて祀られる習わしです。
西大寺会陽は宝木の争奪
西大寺会陽の歴史でも少し述べましたが、西大寺会陽のクライマックスは、なんと言っても宝木が「ご福窓」から投下されたその後の裸の群れの宝木の争奪戦です。
年によって裸の数は違いますが、9千人ともいわれる裸の男たちが2本の本宝木を争奪する様はまさに日本3大奇祭のひとつと言ってもいいのではないでしょうか。
本堂の床一面に密集した裸の群れは、一升枡にひとりといわれるくらいの密集度となるそうです。
宝木が投下される前には本堂の明かりが一斉に消され、宝木がどこに投げ込まれるのかが分からなくなります。
少し前までは、本当に真っ暗になるくらい明かりは全て消されていたのですが、防犯そのほかのことで、今では本堂周辺の明かりが消されるくらいになりました。
本宝木が投下される少し前に枝宝木と呼ばれる、本宝木とは別の、しかし本宝木と同じ香が焚き込まれたやや細めの宝木が、同じ「ご福窓」から投下されます。
これによって攪乱されるはだかの群れもいます。その後本宝木が投下されると、今度は一斉に裸の群れが本宝木に向かって動き始めます。が、一升枡にひとりといわれる密集度ですから、なかなか身動きがとれず、宝木の周辺では「うず」と呼ばれる裸の集団ができます。
宝木をめがけて密集した裸の頭の上を歩いて宝木に近づこうとする者などもいてそれはそれは激しい争奪戦となります。
この争奪戦も年によって変わりますが、長い時間境内でのもみ合いが行われる時もあれば、あっという間に宝木が持ち出されてしまう時もあります。
宝木が境内から出た後の、残った裸の何とも寂しそうな様は、気の毒ささえ覚えます。
西大寺会陽後祭り
さて、会陽が済むと次の日からは「会陽後祭り」が同じ境内で行われます。
会陽後祭りには、多くの屋台が並び催し物も開かれていますので、大変な賑わいを見せます。
ただ、会場周辺には駐車場がそんなに多くありませんので、そのあたりの注意が必要かと思われます。
西大寺会陽に参加するには
西大寺の会陽に参加することは、普通の方ならどなたでもできますが、禁止事項もありますので、下記の「西大寺会陽奉賛会 西大寺観音院」のホームページをよくご覧の上確認をお願いします。
参加受付フォームもありますので、一度はホームページをご覧になって下さい。
また、女性の方も参加できますので、こちらからご覧下さい。